最近ですね、
ろんり。
漢字で書くと、論理。
この言葉が、だいっっ嫌いになってきました。
■論理って、人を打ち負かす道具ではなく、人を納得させる道具。
■論理って、都合のいいように自分を正当化する道具ではなく、
時には自分の誤りを発見する道具。
■論理は、相手の要求を拒絶し、自分の要求を強要するための道具ではなく、
相手の言い分を考え、自分の言い分を伝えるための道具。
そう思うんですね。
だから、人は論理的に考えるべき。そう思うわけです。
ただ、世間一般の論理の使い方がどうも
間違っているような気がしてならなく。
時々、自分も含めてですけど。
仕事をしていると論理的に考えなくてはならない場面は多々あります。
ただ、その際、モノゴトのスジを通すため、確認するために論理的に考える。
それだったらいいんですけど、そーではなく、
結局はその先にいる、モノゴトを伝えたい人間を
打ち負かすために、論理的に考える。
論理的に考えたらオカシイのに、相手を打ち負かすために、押し通す。
どこから沸いて来たともわからない根拠をもとに・・。
それって、なんか本末転倒だと思うわけですよ。
それを伝えられた人間は、納得はせずに、後味悪さが残るだけ。
そこに伝える側と、伝える先に、信頼関係なんか生まれるわけもなく。
誰だって、理解出来ないことをホザく人間なんか信用出来ないでしょうし。
もちろん、人同士が理解するには、色んな障害ってぇものは、ありますよ。
性格の違いだったり、相性だったり、文化や言語の違いだったり、知識のあるなし等々。
でもでも、少なくとも、論理の使い方が正しければ、
相手の納得は、おのずと得られるハズだと思うわけです。
その裏には、多少のGive and Takeはあるでしょうが。
Give and Takeのポイントを探るために、言葉はあり、思考があり、
論理があり〜・・なんて、考えていたら、腹減ったのでやめましたけど。
仕事なんかで、この一人ヨガリ気味の論理合戦が、方々で
繰り広げられた日には、逃げ出したくなりますがな、ダンナ。
マトモな仕事なんか、出来っこありません。
んで、少なくとも今自分の周りに蔓延している「論理」というモノが
吐き気がするほど、大っっっ嫌いになりました。
本来、論理的なことは好きなのに、「論理」をきくとウンザリします。
名付けて、論理恐怖症。特効薬は、モノゴトを単純に考える。眠る。食べる。
そして、最後の最後は人を信用する。自分を信用する。
ぼうそうろんりをふりかざすくらいなら、ひろんりてきに、たんじゅんに
おばかのふりしたほうが、まだにんげんてきだし、ましだい♪
っていうか、ふりをしなくてもおばかだぃ・・・。
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